2016年12月30日金曜日

感謝

今年も色々ありました。
今年9月、希望郷いわて国体の公開競技として10日・11日の2日間、平泉町立平泉小学校体育館を会場にパワーリフティング競技が行われ、成功裏に終わることができました。
それも偏に、開催地の青木幸保平泉町長を初め、日本パワーリフティング協会役員の方々、北海道・東北ブロック協会役員並びに関係者の皆様、競技機材を快くご提供くださったザオバ様、ステージ設営の土台部分を進んでご提供くださった(株)千葉工務店様、広告等によりご支援くださった中尊寺様、毛越寺様を初め、地元企業様や有志(個人)の方々、競技の補助員と尽力してくれた東北大学ボディビル部の選手諸君、それに何と言っても、平泉町教育委員会職員の方々の御厚意、全面的なご支援、ご協力があっての成功であったと確信しております。
この場を借りて深く深く御礼申し上げます。

来年からは平時に戻りますが、趣味も一つ(陶芸)増えたことから、相も変わらず時間に追われること目に見えておりますけれども、マイペースで、坦々と謳歌または消化して参ろうかと思っております。
縁あって当ブログサイトをご覧になっておられる皆様方、今年一年誠にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。
どうか風邪など召されませぬようご自愛くださり、良いお年をお迎え下さることを切に願っております。

尚、10月上旬より当館にて告知しておりましたとおり、諸事情により2019年1月から平泉アスリートセンターの利用時間が変更になります。
何卒ご理解ご協力を賜りますよう重ねてお願い申し上げます。























2016年12月28日水曜日

75年目の訪問

昨日、大戦後初めて日本の総理が真珠湾を訪れた。
今年8月、オバマ大統領が広島を訪問したことを受けて、「お返し」なのかもしれない。
1937年7月7日の盧溝橋事件を発端として、1945年迄の約8年の長きに於いて、晴天が見えない雲天状態の日中戦争が続くなか、欧米からの圧力として石油の輸出が禁止される経済制裁があった。
当時の日本は国際的な孤立を余儀なくされた。
その窮状を打開すべく、未だ石油の在庫があるうちにと1941年(昭和16年)12月8日未明、アメリカの軍事施設があった真珠湾を攻撃し、太平洋戦争を引き起こした。

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2016年12月24日土曜日

大掃除

昨日は一日中自宅の大掃除に追われた。
年の瀬を迎え、一年間の煤を払う、と云っても今は煤はでないので、蜘蛛の巣払いとでも云う方が正しいのかもしれない。
朝からムッたり、クタクタになるまでやったものの、手をつけ始めると気になる箇所が次から次と出てくるものだ。きりがないので、妥協し、やったつもり、やり終わったことにしたい。
あとは事務所の大掃除が残っている。イヤハヤ・・・とため息が漏れるが、致し方なし。

ため息と云えば、超大国の次期大統領の発言がまたまた物議を醸している。
核兵器の更なる強化を図っていくとのこと。
本来なら、非人道的な核兵器の廃絶を望むのことが正しい考え方だと思うのだが、核保有国の論理では、軍縮どころか更なる増強を目論んでいる。
今夜はクリスマス当夜(クリスマス・イブ)。たとえ信者でなくとも、軍縮を心底から祈りたい。






2016年12月20日火曜日

創造の歓び

手作りやオリジナル作品にこだわり、ものづくりに集中し精進することは実に楽しいものだ。
完成したものをしげしげと眺めることは勿論だが、それまでの過程がまた楽しい。
失敗してもまた作り直せばいい。人生と同じである。

予てより、念願だった陶芸を始めることにした。
最初から自己流でも悪るいとは思わないが、何事もやはり基本が大事。
そんなことから、地元一関の「陣の里」陶芸教室に通い始めて今日で2回目を迎える。
前回は粘土の練り方から始まって、手びねりでの作品成形。まずはじめにマグカップと変形の皿を作ることにした。

粘土に触れるのは小学生以来だろうか? あまり記憶にないが、懐かしの感触である。
練り方も色々あるようで、何でもいいと云うものでもないようだ。
しっかり空気を抜かないと、焼きの際に破裂するとのこと。
のっけから戸惑い、先が思いやられる。ウゥゥ!

本日の作業はマグカップに取っ手をつけることや、削りにより形を整える作業などを行った。
今後の行程は、素焼き、釉薬掛け、本焼きと進むが、完成が実に待ち遠しい。

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2016年12月16日金曜日

「後で!!」は禁物なり

今朝方、岩手県南も冷え込みがかなり厳しかった。散歩時の吐く息は真っ白。路肩の草葉はみなカチカチに凍っていた。
その凍えた草々に、朝の浄い光が煌々と音をたてるようにふりそそぎ、色とりどりの反射光が万華鏡のようにキラキラと輝きを放っていた。
眩いばかりに輝く、穏しかるそのフォトジェニックに慌ててカメラを向け、ファインダーを覗きシャッターを切った。
嘗て幾度となくシャッターチャンスを逃し、後悔の念に駆られたことを思い出しながら。

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2016年12月12日月曜日

雪と光のページェント2016

久方ぶりに仙台を訪れ、美味い酒とうまい肴を堪能した。
また恰度2日前の12月9日より、今年で31回目を迎える仙台の冬の風物詩。
約60万個のイルミネーションが、夜の定禅寺通りの街路樹を彩る2016SENDAI光のページェントが行なわれ、見るものを神秘的で幻想的な光の世界へといざなってくれる。
東日本大震災の2011年の年の暮れにも、皆を元気づけ、震災に負けぬようにと、「希望の光」として開催されたことを思い出す。
あの美しく輝く60万個の光、そのひとつひとつに、色んな思いや願いが込められているかのように感じる。昨日の仙台はかなり冷え込み、初雪だった。雪と光のコラボレーションもまた一興であった。

ライトアップは年末の12月31日迄。
時間は午後5時30分~午後10時迄。
金・土曜及び12月22日は午後5時30分~午後11時迄。
最終日の12月31日は午後5時30分~深夜12時(午前0時)迄とのこと。

イルミネーションとしては全国で初だそうで、60万個の光の中に1個だけピンクの光があるそうだ。
じっくり観察して探してみるのもいい。幸運を呼ぶかもしれない・・・。
因みに、期間中の使用電力(5,000kwh)はバイオマス発電によるグリーン電力を利用しているとのこと。























2016年12月9日金曜日

土は生きている

予てより、いつかやりたい、いつ始めようかと自問自答していたが、「イマデショ」の古ギャグに背中を押され、遂に陶芸教室に通うことになった。
しかしながら時間調整もなかなか難しく、定時に行くことはかなり厳しい。そんなことから、こちらの都合に合わせて時間調整が可能な教室はないものか、しかも通える範囲であることを条件に検索してみた。
するとなかなか味のあるネーミングの工房が目に飛び込んできた。
そこは一関市真滝地区の「陣の里」であった。

ホームページの紹介文によると、元国家公務員だった家主(菅原仁さん)が、在京時代に陶芸教室に通って腕を磨き、御両親の扶養のために実家のある一関市に帰省し、統廃合により廃校となった母校の校舎(技術室)の一部を買い取って移築したとあった。
いつものことだが、その興味深い内容に沸々と好奇心が湧き上がり、早速車を飛ばして訪ねることにした。
Google マップを頼りに、多少迷いながらも進んで行くと陣の里の看板が確認できた。

見晴らしの良い高台に広い庭があり、そこには焼きもの窯か薪ストーブ用の薪を保存する為の乾燥小屋が、いくつも点在しており、好奇心が更に刺激された。
工房と思しき玄関のチャイムを鳴らすと、暫くしてから優しそうな人物が奥の方から出てきた。
早速、陶芸教室のことを尋ねると、ろくろや大きな電気窯など、興味深く見て回った。棚の上には生徒らの作品が並べられており、興味も一段と高まってきた。

次に作業場兼工房の西側の部屋を案内された。入り口には「技術室」のプレートが目に止まった。
中に入ると、そこにはレトロ感溢れる昔懐かしい中学時代を想起させる教室(技術室)の光景が広がっていた。
壁際には家主の菅原さん手作りの見事な作品がずらりと並び、奥にはバーモントキャスティング社製の薪ストーブ。そして天井に目をやると、技術教室時代に梁や機械類の動力源として活躍したであろう鉄製のシャフトが配置され、また、楽しかったあの頃を、今にも思い出しそうな落書きの残ったテーブルや椅子が並べられていた。

菅原さんによると、陶芸工房のみならず、地域交流や情報交換の場として、各種イベントや集会、音楽サークルの発表会や料理教室など。屋外の広い庭ではお祭りやフリーマーケット、お茶会や野外コンサートなどの共有スペースとして利用したいのことだった。
昨日から約2時間程、月2回の陶芸教室に通うことに決め、早速、土(粘土)の感触を確かめながら、コーヒーカップと小皿の作成に取り掛かったのだった。

問合せ先:陶工房 陣の里
住所:岩手県一関市滝沢字寺田下85-1  
電話:0191-48-3376


























この映像は海外の陶芸家による電動ろくろの制作風景を映したもの。
時折コーヒーを片手に、絶妙なる手さばきによって次第に作品が完成に近づいていくが、その卓越した技術により粘土がまるで生き物のようにみえる。







2016年12月7日水曜日

看過できない虐め

またか!!
先日、横浜の中学校で、福島県から自主避難した中学生への虐めが問題となったが、今度は新潟の小学校で起きた。
子供らによる陰湿な虐めは、不憫で、居た堪れない衝動にかられるが、今回の問題はよりことが大きい。子供らのみならず、担任の教諭までもが一緒になって「菌」呼ばわりするなど、あまりにも無神経で、陰湿極まりない行為である。
冗談にもほどがある。とても許される行為ではない。
生徒らの同調圧力に屈して迎合したか、教育者としての根本的な資質を疑う。

教育者の虐めと云えば、以前にも問題になったことが度々ある。

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2016年12月5日月曜日

火災防護訓練「常川寺」

昨日の日曜日、地元消防団の火災防護訓練が行なわれた。今回は地元のお寺(常川寺)の杉林が火元で、一帯の山林に火災が発生したと云う設定で行なわれた。
本部からの無線により、待機場所で控えていた各部の消防車両が、出動要請により一斉にサイレンを鳴らしながら現場に急行し、迅速に消火活動に取り組む訓練を行った。
訓練と知りつつも、サイレンの音が鳴り響くと急に緊張感が高まってくる。

2011年3月11日の東日本大震災の翌朝、まだ薄暗い朝の帳が開く前、シーンとした静寂を切り裂くサイレン音が木霊して目が覚めた記憶がある。今でも明け方になると時折思い出すことがある。
そんな緊張感を持ちながら真剣に訓練に取り組んだ。
昨年、一昨年と先陣を切る筒先係を担当したが、今回はポンプとホースの運搬係。ホースを担ぎながらあたふたと駆け足で所定の場所に運搬したが、流石に足腰の衰えは隠せなかった。最近膝や腰の不調からトレーニングを怠っていたことを今更ながら痛感した次第。
気合を入れ直し、鍛錬を怠らぬよう頑張っていきたいものだ。

出来ることなら若い衆に入団して頂き、地元に少しでも貢献して欲しいのだが、如何せんなかなか難しいようだ。
全国的にも、若者のなりて不足や団員の高齢化問題に頭を悩ませているようだが、こんなところにも少子化の影響が現われているのだろうか。
しかしながら、そんなことを云ってはいられない。
地元は地元の手で、地元民が守る必要がある。
使命感、犠牲的精神などの大義名分云々は控えるが、家族の延長線上に地域があり、家族の集合体が地域を形成する。
則ち地域の縮図が家族であると私は思う。
「家族を守ること」その線上に地域の消防団があるのではないだろうか。
我こそはと思う若人諸君よ、常に門戸は開いている。地域の皆が入団を歓迎している。

追記
訓練終了後、一関市消防署職員による総評があり、そのなかで、無線器使用についての感想があったが、「自分たちの言葉でいいからもっと活用するように」との指摘があった。
確かにあまり形式張った話し方では、緊急を要する有事の際に使用困難となりかねないのも事実である。形式通りの使用でのみ利用可能と思っていただけに、非常に良いアドバイスを頂戴したと私は思う。


















 消防団のこと >>   火災防御訓練「舞草神社」>>




2016年12月3日土曜日

高所恐怖症

昨日は随分風が強い一日だった。木枯らしだろうか。木枯らしの条件は北風であることと風速が8m/s以上、今朝の新聞には最大瞬間風速24m/sを記録したとあったので、十ニ分にそれに該当するだろう。
看板が飛ばされたり、トタン屋根が吹き飛ばされた所もあったほどだが、「こがらし」ならぬ「おおがらし」とでも云おうか、そんな日は外での作業は危険極まりない。

先日、事務所の窓から高圧線の点検作業を目にしたが、穏やかな日で何よりだった。
とは云え、高所での作業自体凄いことだ。
いつもながら感心することしきりだが、私などは足がすくんで立ち上がることすら出来ないだろう。尊敬に値する。

学生時代、建築現場でアルバイトをしたことがある。比較的お金になるとあって、後先考えずに飛び込んだのだが、先ず最初の難関は仮設の足場を克服することだった。
3段目あたりまでは何事もなく上れたものの、4段目あたりから急に足が震え始め、足に力が入らなくなった。更に上段に上るのに、横ばいになりながらも支柱をしっかりと掴み、少しづつしか進めなくなったのである。
俗に云う高所恐怖症というやつだ。

職人さん方からは、「あの風体でなにをやってんだ」とでも云われていたのだろうが、そんなことを気にする余裕など到底ある筈もなかった。足がすくみ、恐怖に震えながらも引き返す訳にも行かず、それでも頑張ってなんとかかんとか目的地の屋上まで辿り着き、作業に取り掛かることができた。
しかしながら、一番怖かったのは上りではない。「行きはよいよい、帰りは怖い」終わってからの下りだった。下を見ないようにと自分にいい聞かせるものの、意識をすればするほど目がいくのが心理である。かと云って目をつぶる訳にもいかない。

あの時ほど、お金に目が眩んだことを後悔したことはなかったが、慣れというものは恐ろしくもあり、有難くもある。
屋上まで平気で上れるようになり、さあこれからが本番だと云いたかったが、バイトの最終日まであと一日を残すのみだった。
あれから既に30余年、いま一度屋上迄足場を上れと云われても、おそらく足場の3段目ぐらいで足がすくみ、腰が立たなくなるのではないだろうか。